第2話


雪もちらつく寒さである。あの祭り男は体内で自家発電でもしている
のだろうか。そんな芸当を無論春香が出来るはずも無く思わず身体を
震わせた。一号室の奥にひっそりとたたずんでいる古い漆塗りのドア
の上に黄色くくすんだプレートが掲げられている。いきなり映画のワ
ンシーンのような椿事に遭遇し母の言葉の想起と会わせ一抹の不安を
抱かずにはいられなかったがすぐにそれを奇麗さっぱり払拭してみせ
た。これが先述の春香の春香たる所以である。
「少々変わった人がいてもおかしくないわよね。・・世の中広いんだ
し・・・。」
あれが少々の形容ですむのか春香自身も分からなかったがそれは考え
方一つである。自分のバッグと心ならずも持ってきてしまった父のバ
ッグを床に置くとマフラーを取りながらプレートを仰いだ。
「管理人室・・。」 
言うまでもなく足元は靴下である。春香とてこのアパートに下宿して
いた父と管理人をしていた母が結婚して十年前までここで暮らしてい
た事は良く知っている。自身も五歳までこの管理人室で幼少を過ごし
たのだ。春香も素敵な恋を夢見るお年頃、感慨と同時に父と母の青春
がこの一刻館にあったのだと思うと乙女心がときめいた。鍵をポケッ
トから取り出そうとして再び手が止まった。昨夜落としたらいけない
と大切にバッグに仕舞い直した事を思い出したのだ。が、その後のこ
とを思い出すのも早かった。鍵は父が間違えて持って行ってしまった
バッグに入っているのである。
「も〜〜〜〜!!」
靴下のままで足は凍えるしさすがに春香も大声を出さずにはいられな
かった。
「お父さんのばかーーっ!!!」
次の瞬間冷え切った足でドアを思いきり蹴飛ばしていた。が,それで
ドアが素直に開いてくれる筈もなく寒さに余計な激痛が加わっただけ
であった。母にはしたない姿を見られなくて良かったと安堵しながら
も座り込んで気の毒な右足を抱え込む自分がひどく惨めに思えて来た。
こんな思いをするのもみんなそそっかしい父のせいだと恨みを込める
も自分も負けず劣らずのおてんばだと言う悲しい自覚も生まれてくる。
廊下の隅に共同電話が置いてあるが母の反対を押し切って半ば強引に
わがままを通してここまで来た以上母に電話をかけるのは気がひける。
と言って自分のバッグを持っている当の父の職場の電話番号は分から
ない。結局八方塞がりなのである。風も出て来たのか静まり返った一
刻館がきしんでいる。もう本当に師走なんだなあと春香は思う。別段
変わり映えしない廊下と天井を見回してみると所々に薄いしみが出来
ていた。今までこの建物はどれだけの人を迎え送り出してきたのだろ
う。こんな状態で妙に落ち着いてしまった。風が悲鳴を上げて通り過
ぎてゆく音も聞こえて来る。腰を下ろしたままスカートの乱れを直す
と一つ息を着いた。
「一刻館・・・かあ。」
自分でも気付かないうちにそんな言葉を口にしていた。・・・
「うちに帰るしかないのかなあ。」
マフラーをまた首に巻きつけると独白した。この赤いマフラーも母自
らが編んでくれた物である。口から溜息が漏れた。
<父,裕作が音無郁子の仲介で中古ながらも築五年に満たない良質の物
件を購入し春香達が住み慣れた一刻館を後にしたのは十年前の事である。
二階建ての庭付き一戸建ての邸宅であったが音無家と付き合いのある不
動産屋と言う事で破格の安値でローンを組ませて貰う事が出来た。弟の
裕介が生まれたのは新居に引っ越して五年目のまだ春浅い早春の頃であ
った。春香の名付け親は裕作であったが裕介の名は母,響子が付けた。
父は自分のいみなを使われる事に余り乗り気ではなかったようだが母は
この名前にこだわったらしい。>
時は冬の到来を本格的に感じさせ始めた十一月下旬。夕食後春香と父
は居間のこたつで暖をとり母は後片付けで台所に立っている。父は五
色の折り紙で教材で使う鶴を幾つも作っており膝の上の裕介に優しく
折り方を教えている。春香は英単語ガイドを開いたまま頬杖をついて
二人の折り鶴作りを眺めていた。五代家ではいつもと変わらぬ家族団
欒のひとときである。
「春香、朱美さんにお水をあげておいてくれた?」
「あ、いっけない!」
台所からの母の言葉に春香は急いで腰を上げた。「朱美さん」とは一
刻館時代からの父母の旧知の仲である玉露、旧姓六本木朱美が裕介の
三歳の誕生日にプレゼントしてくれた雄の柴犬である。それにちなん
で春香が名を付けた。朱美さんに失礼だからと母は反対したが当の本
人は喜んでいたそうである。となれば女性の名前を付けられた雄犬こ
そ迷惑であった。しかしその事で「朱美」から苦情が出る事はなかっ
たようだ。春香が庭に出ると朱美がたまらいように声を上げた。父は
名前の由来から破天荒な性格になるのではないかと心配していたよう
だが春香の躾のおかげで稀に見る良犬に育った。ただ一つの事を除い
てのことだが。春香は勢い良く水を飲む朱美を眺めながら何となく話
し掛けていた。
「ねえ、あなた何でワンと鳴かずにバウって吠えるの?」
震えながら居間に戻るとミルクティーを飲みながら母が父と雑談して
いた。昼間裕介のおやつに作ったアメリカンチーズケーキの品評会と
なっており春香にはレモンティーが用意され早速母のケーキの評価に
加わった。時刻は九時を回り裕介は早くもおねむのようである。父は
空色のチェックのパジャマに青のカーディガンを羽織り母はレモン色
のリボンで髪を束ね桃色のセーターを身にまとっている。
「裕介はもう寝た?」
「うん・・」
母の問いに答えた父だったがケーキの味にはいまいちの様子である。
「もう少し甘くてもいいんじゃないかな?」
母も口に運びながら
「こんなもんだとと思うんだけど・・・春香はどう思う?」
「それよりちょっと固くない?」
「そんなことないわよ!」
こうして五代家の夜は更けて行くのである。春香の部屋には自身がま
だ赤ん坊の時一刻館前で住人皆で取った記念写真が机の上に飾ってあ
る。あれから十数年経つにもかかわらず母は写真の姿のまま余り変わ
りない。父は肩幅が広くなり春香にとって優しさと理解のある良き父
親である。時折りとんちんかんな事をしでかすのはご愛嬌だ。
「ねえ、お父さんとお母さんに相談があるんだけど・・。」
春香はこの夏からずっと考えて計画していた事があったのだ。
「携帯電話なら高校生になったら買ってあげます。」
優しく答えながらも母はまだ首を傾げている。
「そんな事じゃなくて・・。」
「じゃあ・・何?」
「私一刻館に行ってみたいの。」
「いつでも行ってくれば良い。」
父はミルクティーのお代わりを母に入れてもらっている。
「そうじゃなくて・・私高校に合格するまで一刻館で暮らしたいの。」
「暮らすって?!・・熱〜っ!!!」
二人の驚きはある程度予測できたが特に母の驚愕狼狽ぶりは春香の想
像以上であった。ティーカップに入れていた紅茶は見事に狙いを外れ
父の手に注がれた。言うまでもなく大声をあげて飛び上がった父だっ
たが母は驚愕狼狽に周章まで加わって文字通り居間は収集不可能にな
ってしまった。手を冷やしに,手ぬぐいを取りにと慌てて台所に駆け込
む父と母の姿を見つめながら春香はもしかして自分はとんでもない事を
言い出したのではないだろうか・・と考えながらケーキを口にしていた。
「あれ・・美味しい!・・。」
可愛いフクロウが柱で十時の時報を知らせている。父はさっき飲み損ね
たミルクティーを飲みながらくつろいでおりベッドで安眠中であったは
ずの裕介が先程の騒ぎで天使の眠りを妨げられ母の胸の中でぐずってい
た。春香はそれぞれ三人に目をやりながらティーカップに少しだけ口を
付けた。
「ねえ春香,さっきの話なんだけど・・」
母が裕介の手を握って優しくあやしている。
「一刻館で暮らすって事はあそこに住むって事?」
「この夏からずっと考えてたの」
「じゃ、何時からあそこに行くって計画立てたの。」
「年末の二十日くらいから。」
「・・それで受験が終わるまでっていったら・・二月の半ばまでよね。」
父はノンビリとケーキを口にしている。
「でも何でそんな事しようと思いついたの?」
「何でって言われても・・・・」
言葉を濁す春香がなぜ理由を言外に隠したのか母には何となく分かる気が
した。しかし現実の問題として中学三年生の娘をしかも試験中に数十日も
外泊させるわけにはいかない。
「でもね、今年中はともかく一月はまだ学校に行く期間でしょ。お弁当は
どうするの。晩御飯も自分で作ってっていったら大変よ。勉強に支障が出
ない?」
「朝と晩御飯は簡単なもので済ませるし・・それに一月になったらもう学
校はずっとお昼までよ。だからお弁当はもう必要無いし・・。」
「食事はちゃんと取らないと体調を崩します!それに朝ちゃんと起きれる
の。入試の日に寝坊したら大変でしょ?」
「子供じゃないし大丈夫。ちゃんと起きれるわ。」
「あなたはまだ子供です!いつもお母さんに起こされないと起きないでし
ょ。」
「大丈夫よ。ちゃんと大きい目覚まし時計持って行くし・・。」
母が裕介の手を自分の額に持って行った。頭が少し傾いでいる。何か言お
うとしたようだったがすぐに口を閉じてしまった。
「・・?」
「・・・とにかくお母さんは絶対許しません。」
「・・お母さん?!・・・」
母は寝付の裕介を抱いて立ち上がるとさっさと寝室に消えてしまった。もう
春香の取りつく島もない。父が自分で紅茶をカップに注いでいる。火傷後に
貼られた白いガーゼが痛々しい・・事もなかった。
「ちょっとお父さん!私の話をちゃんと聞いてたの?」
「聞いてたよ。やっぱりこのケーキ美味しく出来てる。」
「もう!今はそんな話してないでしょ!」
春香も怒った顔を向けるとプイと席を立ってしまった。流れていく涼やかな
黒髪を見送る父の眼差しは穏やかである。居間に父だけの時間がゆっくりと
流れていく。フクロウが短く鳴いた。コタツの上には春香が忘れていった英
単語のガイドブックが残っている。もう一度紅茶を入れ直しレモンを落とす
父の口から静かに述懐が漏れた。
「十五年か。・・・」
十五年前、父と桜花のもと母の腕に抱かれ一刻館の皆に見守られていた春香
も心理的に親離れを模索する時期に来ていたのである。思春期から青春期へ
とそれは自由への憧れであり十五年と言う歳月の中で五代春香が無事成長し
てきた証と両親の愛情の賜物である。裕作と響子にも春香の自立心の芽生え
には一年ほど前から気付いていた。パパ、ママから呼び方がお父さん,お母さ
んに変わったのもその頃だろうか。我が子が親の手を離れていく事は誇らし
くもあり寂しくもある。しかし言う事はまだ子供である。頭を押さえた母と
主に忘れられたガイドブックを見ながら苦笑する父であった。

・・・続く









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