第四話



夏休み前から熟慮を重ねてきた下宿生活。
・・のはずが蓋を開けてみれば自分に付いてきたのは着替えを詰め
込んだバッグ一つだけである。強気に家を飛び出してきたものの厚
着を通して来る寒さにさすがの春香も首をもたげ始めた心細さを必
死に押さえ込まねばならなかった。雪の乱舞を眺めながら朱美さん
でも連れて来てやれば良かったと思う。慌てんぼの父のバッグはこ
の際無視である。と、何やら美味しそうな匂いが漂って来た。どう
やら住人の昼食らしい。同時にほったらかしていたお腹が目を覚ま
した。バッグを取り違えた父には憤懣やる方ないが弁当が入ってい
た事だけは不幸中の幸いである。お腹がいっぱいになれば明日の太
陽もまたピカピカなのだ・・。
とりあえず父の弁当を取り出すと膝の上に広げてみる。裕介の可愛
いお弁当が食べ良かったが何の罪も無い弟のを先に食べるのは気が
引ける。ここはやはり手痛い失策を犯してくれた父の弁当を成敗す
るのが正当である。しかし良く太らないものだと感心してしまう程
のボリュームである。蓋を開けるとこれまたびっくりの愛妻弁当が
目に飛び込んで来た。鶉の卵は笑っているしウインナーはカニ、タ
コ、ペンギンと水族館。人参は星と化しおむすびは子豚に変身して
いる始末。春香のシンプルな弁当より遥かに手が込んでいる。
「お父さんのばっかり・・。」
中学生ともなれば凝ったお弁当は返って恥ずかしいのではないかと
いう母の親心を若い春香が斟酌できるはずも無い。
「お父さんのバカッッッ!!」
矛先は当事者の母ではなく父に向いてしまう。
先の言葉を反芻しながら愛嬌溢れるペンギンを箸で摘むと母の見事
な腕前に感心しながらふと考えた。
”ピット君にあげたら喜ぶんじゃないかしら・・・。”
浮遊する味噌汁の匂いに包まれているうち牡蠣、鯛、蟹、キノコ
類をたっぷり放り込んだ母自慢の豪華土手鍋を思い出した。
笑いかける可愛い卵を口にしながら駅一つ離れていない我が家の
団欒を想う春香であった。
と、何の脈絡も根拠も無く唐突に一匹のハムスターが足元に湧いて
いる。
「!?・・あ?!」
いつの間にと思う暇もあればこそリズミカルに動く鼻先が妙にリア
ルである。
「ヌイグルミ?」
良く出来てるなあと呑気に感心していたがあららと思う間に春香の
スカートを上り始めた。何の事はない、本物なのである。
「ちょっ!!・・きゃっっ!!!」
座ったままと言う稀に見る芸当で飛び退った。しかしハムスターは
スカーレットのスカートにピッタリ張り付いたまま離れない。
実は春香はねずみの類が全て苦手なのだ。五歳の七五三の折お気に
入りの洋服をかじられ台無しにされて以来大嫌いになってしまった。
ここに来て最高のゲストのお出ましである。黄金の毛皮をまとった
主は春香の気持ちなど分かる筈もなく居心地が良いのか膝の上に居
座ってしまった。呑気にひげを洗っている闖入者をやるせなく眺め
ながらこの屋敷は一体何度自分に叫声を上げさせれば気がすむのだ
ろうともはや長嘆である。右手に箸、左手に弁当と泣くに泣けない
格好でハムスターと往生する羽目になってしまった。
”あそこは若い女の子が暮らせるところじゃないの!”
母の言葉が頭の中をぐるぐる回り始めた・・が、今さらのこのこ帰
る訳には行かない・・。
とりまずこの招かれざる客を何とかせねば、と思案しているところ
へいきなり赤いお碗が目の前に差し出された。仰天して顔を上げる
と髪の毛を両側に束ねたおさげの女の子が笑っている。
裕介と同じくらいの年頃だろうか。赤いサンタクロースの帽子をか
ぶり桃色のほっぺが愛らしい。
「お姉ちゃんにどうぞって、お母さんが。」
「私に・・?」
熱い汁の中であさりが大きな口を開けて湯気を噴いている。
この寒空にこれほど有り難い頂き物も他にない。受け取りたいのはや
まやまなれど可愛いハムちゃんを抱え万歳状態継続中の春香である。
「お姉ちゃん面白いかっこしてる。」
女の子がくすくす笑い始めた。自分の姿をひるがえれば確かに滑稽
極まりない。
「ほんとね。」
何だか春香も可笑しくなってきた。今まで居座っていたハムスター
が急に腰を上げると女の子の足元に駆けて行く。ホッと一息の春香
の横で女の子が歓声をあげた。
「あ、こんな処でおいたしてた!」
女の子が慣れた手つきで掌に乗せると一気に頭の上まで駆け登り当
たり前のように帽子の中に潜り込んでしまった。ちょこんと顔だけ
覗かすと鼻の頭を一心不乱に洗っている。仇敵ハムちゃんは好きに
なれないが女の子のくりっとした黒真珠のようなつぶらな瞳が全て
を可憐に見せている。
「ありがとう!」
改めて両手でお椀を受け取ると心からお礼を述べた。
「それお嬢ちゃんの?」
「うん、わたしの可愛いモンスくんだよ。」
「モンス君?」
奇妙奇天烈な名前である。
「お兄ちゃんが付けたんだよ。」
ネーミングセンスから察すれば四茸氏だがこんな小さな妹、まして
子供がいる人物とも思えない。
「お嬢ちゃん、もしかして二ノ宮君の妹?」
「そうだよ。わたし二ノ宮もも。」
粗忽で無神経な兄とは似ても似つかぬ愛くるしさである。
頭上のモンス君は前足で鼻を隠して夢の中に旅だったらしい。ピッ
ト君はともかくモンス君とは二ノ宮も四茸氏に負けないセンスであ
る。何か語源はあるのだろうか。
「じゃね!」
お椀で部屋いっぱいの幸せを届けてくれた天使は満面の笑みを残す
とぱたぱたと部屋を出て行ってしまった。閉めかけたドアから咲貌
を覗かせて手を振っている。笑顔で手を振り返す春香がペンギン兄
さんに似なくて良かったと要らぬお節介を焼いているとお腹が催促
の悲鳴を上げた。ここはとにかく意気消沈している心と身体に活力
を与えてやるのが先決である。小さなくしゃみをすると早速熱い汁
を喉に流し込んだ。
「美味しい!」
生き返った気持ちのする春香の口元から真っ白い安堵の吐息が漏れ
た。

春香が一息付いていた頃五代家では・・
保育園から帰宅した裕介が一騒動起こしていた。今日は裕介と父の
通うしいの実保育園の巷より一日早いクリスマス会。公演の人形劇
で大活躍した裕介が園児皆の力で作った力作の人形を春香に見せる
と言って聞かないのである。
「またにしよ。」
「いやだ!」
旧家に飛び出してしまった姉の詳細など小さな裕介に話せる訳も無
く何とかなだめようとする母の懐柔策も効果は無い。あくまで今見
せると一歩も引かない裕介にさすがの響子も手を焼いていた。
まだまだあどけなく日々楽々と送っている裕介。つまらない事に精
を出し時に間の抜けた言動で母を微笑ませるが不意に顔を出すこの
押しの強さは誰に似たんだろうと思う。
「じゃ、雪が止むまで待と。」
「今行く!!」
可愛い両の手を握りながらどうにかなだめようとする母の言葉にも
耳を貸す様子がない。クリスマス会の歓心と東京には珍しい大雪が
裕介の気分を高揚させている事は分かる。お気楽にに突っ走り周囲
をひやひやさせる事はあってもわがままを通す事など滅多にない裕
介だけに響子もやり場に困ってしまった。
往来を吹き染める雪帽子がガラス戸越しに目に映った。響子は参加
出来なかったが裕介にとって保育園最後のクリスマスはとても心に
残るものだったらしい。これだけの大雪を見るのは響子とて久しぶ
りである。確かにいつもお目に掛かれる象景ではない。
まだ幼い我が子と二人、雪やコンコンもやぶさかでないかもしれな
い。
しかし今の状況はどう見ても雪やゴウゴウである。
「もう少し、あと少しだけ待と。」
愛くるしいまなこで必死に訴える裕介を優しく説得する。
「少しってどのくらい?」
「あの長い針がもう一回てっぺんに来るまで。」
黄色いふくろう時計は一時を過ぎたばかり、裕介にこれ以上待つ心
のゆとりはないと見込んでの提案である。
「約束だよ!」
母とげんまんを交わすと欣喜雀躍して庭に飛び出して行く。
響子は風雪を散らして朱実さんと戯れる裕介を見届けると右肩にま
とめていた結い髪のリボンをほどき始めた。寝室に向かいながら少
しでも吹雪が鎮まってくれればと思う。
「雪にてるてる坊主でもないわよね・・。」
そんな事すれば返って裕介を怒らせるかもしれない。
鏡台の前に座りながら顔をほころばせる母であった。




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